朝倉氏遺跡の発掘経過 危機一髪だった「日本のポンペイ」 遺跡の発掘は昭和42年のことであるが、その発端は昭和41年度の文化庁の史跡保存整備事業「風土記の丘」構想であった。
「風土記の丘」に決定する前に、事前調査、整備が必要ということで、最初南陽寺跡、湯殿跡、諏訪館跡の三庭園が発掘整備されることになった。
これらの庭園は地上部に庭石が一部顔を出しており、専門の研究者には古くから知られていたが、文化庁の指導のもとに、地底部が発掘され、また庭石組周辺の余分な土や
雑木が除かれると、今日みられるように見事な庭園が姿をあらわしたのである。
43年には、館跡の整備のために、事前の発掘調査が行われたが、これが一乗谷における本格的発掘調査のはじまりであった。
調査は主として、奈良国立文化財研究所の指導のもとに行われた。発掘前の館跡には、中央部に松雲院が、西北部に足羽町一乗谷支所があった。まず松雲院を本寺の心月寺へ
移転統合し、中央に十文字に発掘のためのトレンチを設定した。 はじめの頃は、めぼしい遺構は発見されず、あせったらしいが、思いきって1mほど掘り下げたところ、堆積土の下から立派を礎石が顔をだした。
この遺構面を確認してからは、発掘調査は一気に進行したと言われている。
一連の礎石が次々と検出され、礎石や庭石の一部には、朝倉館焼亡の際、強い火力を受けたと思われる痕跡が生々しく
残っていた。これほどよく建物の基礎部が遺存していようとは、誰も予想していなかったのである。
このため、館跡を全面発掘して遺構の全貌を明らかにしようということになり、調査は次年度以降も継続して行われることにをった。
このころ一乗谷の上城戸の外では、農業構造改善事業による水田の区画整理、造成工事がはじまり、
ブルドーザーが音をたてて工事を行っていた。その周辺では、おびただしい量の青磁や染付、越前焼の破片が出土していた。この事業が城戸ノ内の水田にまでおよべば、遺跡中心部の潰滅的損壊は
免れないという、
危機的状況にあった。 これを見た郷土史家や(故)井上鋭夫教授、(故)青園謙三郎氏等が県当局に強く陳情、さらに交渉を重ね、現地視察の結果、事業をストップさせ遺跡の保存策を検討することになったのである。
この要請がなければ、今頃、遺跡はどうなっていたかわからない間一髪のところであった。
この結果、地元足羽町(昭和46年9月福井市に合併)、県教育委員会、文化庁の関係者による、再三にわたる話合いが行われ、遺跡の平地部21haの一括買収公有地化と地元住民の生業対策を十分に考えるということで合意し、昭和46年7月29日に山城跡を含む広大を278haが特別史跡に昇格指定されることに
なったのである。
県当局も昭和47年4月1日には、朝倉氏遺跡調査研究所を設立、本格的に発掘調査と環境整備事業を実施することにな
り、これが現在へと繋がっているのである。
|